幸福なるスポーツとナショナリズムの光景 / 「インビクタス」 クリント・イーストウッド

◇「インビクタス」公式サイト
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1978年のサッカーワールドカップ・アルゼンチン大会、数々の栄光を手中にしキャリアの頂点にいたはずのヨハン・クライフは、その大会の出場を辞退している。

1976年の軍事クーデターによって、当時のアルゼンチンは軍事政権下にあり、反政府勢力への弾圧により数万人の行方不明者を出していた。「行方不明者」、これはようするに政府に殺害された人と考えてよろしい。
そのため、このアルゼンチン大会は「血塗られたワールドカップ」と呼ばれることになる。クライフが出場を辞退したのはそのためだ。
ヨーロッパやアジアから呼ばれたナショナルチームは、ブエノスアイレスのリバープレートの宿舎に泊まることになっていたが、そこはもともと拷問で何人もの反体制運動家が殺されてきた収容所を改装したところだった。

軍事政権は、この大会で、国内の不満や反政府の動きを封じ込める効果を狙っていた。経済や圧制に対する不満を、スポーツの国家代表を使って懐柔しようとしたわけである。

そして、アルゼンチンはこの大会を優勝する。
ノーベル平和賞を受けたアルゼンチンの平和運動家ペレス・エスキベルはこの大会を「アルゼンチン人民の悲惨と抑圧を隠すために、巨大な舞台セットで作り上げられた」と語った。そして、その舞台での「優勝」に、右派も反体制家も、政治家も人民も喜び街頭に出た。ワールドカップにより軍事政権は国をひとつにすることに成功したのだ。
「2500万人のアルゼンチン人が同じゴールを目指した日、アルゼンチンは一度でなく千回も勝ったのだ」軍事政権の財務大臣はこう語った。


スポーツが国家体制の称揚や政治的な意図によって利用されることは歴史の中ではいくつも観察されている事態だ。


ナチスが「アーリア民族の優秀性と自分自身の権力を世界中に見せつける絶好の機会」として、ベルリンオリンピックを開催したのはもっとも有名だろう。映画では、レニ・リーフェンシュタールの「オリンピア」がこの光景を完璧に見せつけている。

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1934年のサッカーワールドカップのイタリア代表は「ムッソリーニのアズーリ(イタリア代表の愛称)」と呼ばれて国威発揚に使われていたこともある。
ブラジルが軍事政権時代、サッカーワールドカップのテーマ曲はその政権のテーマソングともなっていた。
こうしたエピソードは本当に数え切れないぐらい続いている。


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この映画「インビクタス」は1995年のラグビーワールドカップ南アフリカ大会を巡る物語。映画は南アフリカにおけるスポーツと国家の関係をうまく捉えつつ、ネルサン・マンデラの人種融和の思想を描き出す。しかし、裏返すとスポーツをナショナリズムの道具に使った政治家のエピソードと片付けてしまうことも可能な題材だ。

クリント・イーストウッドの映画の基調となるボトムラインの旋律は、いつも倫理と反倫理のギリギリの境界線を表現する。
反倫理には倫理ではなく、反倫理で対抗するしかない。そういうマッチョな思想がいつでもあらわになりながら、マッチョさが男の孤独とセットになっていることも忘れずに描写される。

スポーツにより、国民を統合して理想的な国家像に収斂させる政治手法。
それは、ダーティー・ハリーのマグナム44と同じく危険なものである。

この映画のネルソン・マンデラも、ハリー・キャラハンと同じく、その危険な武器を使ってやりぬける。そして多くのクリント・イーストウッド作品の主人公と同じく、民衆の尊敬と愛をつかみとって国家元首となりながらも、家族の愛に恵まれずに孤独で、そしてひとりで決断してひとりでその責任を負う。
ひとりで責任を負うのは、その行為が決して許されるものではないことを承知で行うからだ。
南アフリカ代表チーム「スブリングボクス」のユニフォームを着て満員のスタジアムに現せるネルソン・マンデラは、この倫理と反倫理がギリギリの地点である行為について、ひとりで責任を負う。自分を28年間自分を牢獄に入れた白人の愛好するスポーツのスタジアムに、暗殺の恐れがあるにもかかわらずに乗り込み、ブーイングとポップコーンが頭上に飛び交う中で選手を激励する。


スポーツと幸福なナショナリズムの結合した映画はいくつかある。
自分が好きなのは、サッカーのオールスター選手の映画であった「勝利への脱出」。

そういう種類の幸せなスポーツ・ナショナリズムの映画のひとつとして考えて、スマートな映画のまとまり方を賞賛したい。
クリント・イーストウッドのいつもスパイスがふんだんに使われたところが、さらにポイント。
秘書と大統領警備隊とラグビー代表チームの3つに焦点が当てられている小ぶりな舞台設定も好感。


今年2010年、サッカーのワールドカップは南アフリカ大会。
サッカーでは、「スプリングボクス」ではなく、「バファナ・バファナ」が彼らの代表である。


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FWF評価:☆☆☆★★


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「小虫譜」 吉本隆明

吉本隆明では、当然ながら初期の詩編が好きではあるけれども、このへんのも好きだ。
吉本の詩で好きなものをひとつだけあげろと言われたら、これをあげることになるでしょう。

この詩は、全集などには掲載されていないのではないかな(未確認)。

「詩の読解」鮎川信夫/吉本隆明 より。

鮎川信夫の選ぶ、現代詩アンソロジー十編のうちのひとつ。
鮎川は黒田善夫の「空想のゲリラ」をあげていたり、吉本隆明は長谷川龍生の「理髪店にて」などをあげている。
この本を読んだのは、高校生のとき、たぶんどこかの図書館だったと思う。
「繋船ホテルの朝の歌」なども、この本にて知る。



「小虫譜」

ぼくは死なない
死ねば一緒に死ぬものがあるかぎり
たとえば庭の石ころのしたに
いるハサミムシ 驟雨が過ぎてなかなか引かない
泥水のなか溺れそうに泳いで渡る
霧のドーヴァ海峡
乱流のなかの敷石の涯へ

たとえば
サンゴ樹の葉のうらのキリモトラ・アブラムシ
一緒にどんなに来る日も
来る日も亡命を準備したろう
闇のダマスカスへ あの雫の吹きよせない
酷暑の檐(のき)の裏へ

たとえば
ミカン箱の方形の第4収容所
すこしモダンなプラスチック製の軍刑ム所
終身収容されたウラボシ科ヘビノネゴザ
すれちがいざまに来る夏もつぎの夏も
脱走について暗号をかわしてきた
水ぬるむ森林の大スンダ諸島
坂のしたの列島へ

そこに何があり
ぼくらは何をしてきたか
高尚と壮大の神学を排して できるだけ
小さな存在と組みたかった
大気に発電する太陽に反抗して その熱線の
とどかないさき
蟻の未来のような虫の政府を
建設したかった

この企図には悲しみが容れられた?

朝顔の蔓のさきから光る繊毛に
映ったのは露のような虫たちと
虫たちとの訣れか 邂逅か
ゆきたくなければゆくことはないと
囁いている羽虫の母
どうせどこへ逃げていっても世界が牢獄だ
ということは この社会では決定されている
と錯乱と同型の理論で説明する蜘蛛の小さな息子

これはちょっとしたいい風景?

<絶対的真理の大僧都>がいないので
世界の外に出て抽象的な反抗と
抽象的な理論にふけっているという声がきこえない
風に揺れる木の音
樋の問う瀑布へ

世界の外にはじつに
世界があった
虹の油煮とふりそぞく緑の蛋白質を食べて
まだ明日のさきに 動く密林のような
明日があるさ
虫の論理にある巨きな拒絶
咲く音楽の日の革命





吉本の詩にしてはカラフルで、特撮映画やアニメ映画的な描写が織り込まれていたりする。
そして、自意識の壁を築き上げながら、それでいて自分のふところに読者をひきつけていく仕掛けとかはいつものごとく。

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サラエボとアルゼンチンの反米思想のライン /「マラドーナ」 エミール・クストリッツァ

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ブログを移転して、はじめてサッカーネタに触れます(笑)
クストリッツァのドキュメンタリー映画、「マラドーナ」です。


さて、映画の中で、「マラドーナ教」("神の手"教)というのが出て参ります。
聖なるマラドーナを讃え、洗礼の儀式は神の手ゴールを信徒が再現するし、ファン同士の結婚式まで執り行ってしまう。
そのときの安っちょい祭壇に安っちょい格好で出てくるマラドーナ教の司祭が、聖典として手に持つのは、"Yo soy el Diego"(邦題:「マラドーナ自伝」)です。

これは自分にとっても聖典ともいえるものなんですよね。やはり、マラドーナは手放しで好きです。


だから、映画としての出来はもういいんです・・・。
ここは目をつぶりたいところです。



クストリッツァが、米州首脳会議のデモに出かけて、演説をうつマラドーナやウーゴチャベス(反米のラ米主義のベネズエラ大統領)やモラリス(ボリビア初の先住民出身の大統領。社会主義者)などと同じ演説台にいるところが、スクリーンで映っている奇跡だけを賞賛したい。

クストリッツアも、このドキュメンタリーでは単なる一ファンの視点。これで良いドキュメンタリーが出来るはずもありません。きまぐれなスケジュールに振り回されて、自宅前のロケバスで待機し続ける姿や私生活のやんちゃぶりに付き合わされるのも、これはこれで彼のサッカーファンとしての夢だったのでしょう。(クストリッツアのリフティングはそこそこいけてましたね。)


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この映画は、1995年から97年くらいまでのマラドーナのドキュメンタリー。

映画の中のクストリッツァのナレーションにあるとおり、これは彼の主人公をマラドーナに見出している監督自身の歓喜をハンディカメラの映像で追ったドキュメンタリーです。

そういう意味でも、この映画については、3つの前提知識が必要となり、それがないと監督と同じく、そして自分と同じ歓喜には至れないことになります。


まずひとつは、マラドーナのサッカー人としての歩み。
ほとんどの人は「5人抜き」「神の手ゴール」のマラドーナは知っているだろうけど、それがフォークランド紛争とどのように関係があったのか、ナポリで神とあがめられているところまでは知っているだろうけれど、それ以上のことは知らないのではないか。
まあ、これは「マラドーナ教」の経典「マラドーナ自伝」でも読んでくれるといい。
映画では、あまりいい映像では現れません。市販のマラドーナのDVDとかのほうが良いかもしれない。

もうひとつは、南米の反アメリカ思想の高揚のこと。
19世紀のモンロー主義の昔から続く、アメリカ合衆国の棍棒外交(ようするに南米は合衆国のものというジャイアン政治のこと)、そして近年では90年代にアメリカから押し付けられた新自由主義が招いた経済的混乱から、現在まで南米は反米の傾向が続き、政権も中道左派まで含めるとほとんどが社会主義傾向が強い。
この撮影の期間は、オバマ就任前。ベネズエラ、ニカラグア、ボリビア、エクアドルなどは、完全にアンチ=ブッシュの反米政権が民主的な選挙で確立されていたわけです。

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そして最後はクストリッツアの祖国セルビアがユーゴ紛争時に、国連の承認のないまま、やはりアメリカの後ろ盾によるNATO軍による空爆を受けていること。


そのへんを踏まえて、クストリッツァが、新しい時代のリーダーの肖像をマラドーナに見出したかったというところは理解できます。

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この映画がそういうところまで踏み込める出来だったかは、観客の皆さんにご判断いただくことになりますが、少なくとも、以上のような背景をもとにして観れば、ブレブレのハンディカメラの手ぶれ酔いにも耐えてみることも出来ると思います。




なお、ラテンアメリカの反米化については、項をあらためて書きたいと思います。


FWF評価:☆☆☆★★

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不幸な未完にして、しかし傑作 / 「パサジェルカ」 アンジェイ・ムンク

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ナチスの収容所を舞台にした心理劇です。

監督が交通事故にて急逝されたため、未完のままの結末の映画です。
撮影だけはしてあったが編集をいれてなかったと想像できるシーンは、スティル写真にてナレーションで処理されています。
しかし、これらの不幸な映画の成り立ちをさっぴいたとしても、これは傑作でしょう。

ナチスの収容所の女性看守の物語・・・ということであれば、昨年でしたら「愛を読むひと」がありましたね。あちらもかなり複雑なストーリー構造の映画でしたが、こちらは心理ドラマとしての掘り下げ方が絶妙で、それに強烈な説得力をもたせる映像がひたすら素晴らしいです。凝ったカメラワークにして、それが決して才に走らず・・・素晴らしいです。

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ストーリーは次のようなもの。

南米で出会った夫(すでにここでナチスの南米逃亡パターンを思わせる設定です)とともに、ヨーロッパに帰ってきた元ナチスの女性看守。
ところが、船上で女性客(パサジェルカというのは女性の船客という意味)に出会うが、それが自分が強制収容所で、結果として死に送り込んだユダヤ人女性ではないかと疑念を抱く。

あまりの衝撃に、これまで自分の過去を話さなかった夫に「真実」を語り明かす。衝撃を受けるのは夫も同じであるが、その「真実」には、まだ隠された秘密があった。

収容所でその美貌からひいきにしてあげたのにも関わらず、自分から密通の懲罰に死の道に送り込まれたユダヤ人の女・・・しかし、その女と思しき女性から隠れるように船上をさまよううちに、元ナチスの女性看守は、その女に対する自分の愛憎と、かたや反抗心をひとつずつ思い返していく。

ストーリーはそのようなものですが、ナチスの収容所の女性看守と女性囚人の日常生活や、残酷な迫害や死の光景が、あたかも何事もない風景のように映像に綴られていく緊張感は、ちょっと忘れられない印象を残します。

結局、ノンキな同性愛的な思いが、この異様な強制収容所の光景の中で、きわめて当然にも、相手からはエゴとしてしか受け止められないのだが、それを看守の女性はあくまでも支配するものとして善意を強制していきます、そして屈服させようとするのです。

船上で出会った女性客は、ただ単に似ている人だったかもしれません。おそらくヨーロッパに帰ってきた女性看守の中で、よみがえりつつある記憶とむすびついた他人なのでしょう。女性看守は、自分のあのときの行為の正体をそこに見出していくのです。

いやー、これは凄いですよ。まずは、女性看守が映画の主人公として極めて印象的です。
理知的な容姿に、鋭い目線・・・しかしナチの制服の中には丸みを帯びた体つきがあって、やわらかい肌が美しい。
かたや、強制収容所のユダヤ人(政治犯やジプシーみたいな人もいるのでしょう)は、皆、獰猛な動物のような目つきをしています。その中に、ひとり、どうにもミスマッチな「善意」をひけらかす主人公がいる。

この対比があって、そして強制収容所の中の日常がこれを取り巻いている。これが淡々と日常的であって、そしてこれが不気味です。


ナチスの強制収容所を取り扱った映画の中では、これは図抜けてリアルです。日常的であるからこそリアルなのでしょう。


不幸な成り行きで未完となった映画ですが、これは傑作です。未完にて、ここま出来上がった映画というのも、さらには驚きです。


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1961年ポーランド映画。

池袋新文芸坐にて、同じくポーランド映画「尼僧ヨアンナ」との二本立てにて。

となりの席には、老人の日本人男性と白人のお婆さんがいらっしゃいましたが、あれはポーランドの方なんでしょうね。


この「パサジェルカ」で、船上で再会?するユダヤ人女性の役のアンナ・チェピェレフスカは、もう一本の「尼僧ヨアンナ」でも不幸な女性を演じていました。





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フロイト的抑圧の光景 / 「尼僧ヨアンナ」 イェジー・カヴァレロヴィチ

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フロイトそのまんまに、まずは書いていこう。

もともと人間の「性」は抑圧されている。
そうしないと、秩序はうまく保たれないからだ。宗教や法や政治というのは、そのような「性」を封じ込めて、それで社会全体がうまく機能するようにするためのものといってよい。

そういう抑圧のシステムの中では、男性の側から一方的にみると、この映画の冒頭の下卑た宿屋の主人のセリフにあるとおり、女性というのは聖女であると同時に淫らな存在である。
社会的な禁忌を破るものはすなわち「悪」であるとするならば、そのような性的な存在である人というものは、映画の中でカトリックの僧侶の主人公と問答をするユダヤ教の僧侶の認識とおり、もともと悪を秘めているし、そもそもそれが前提となって世界は出来あがっているということになる。


さらに、性的な抑圧は、時にそれがうまく機能しないと、人間の精神に破綻をきたすこともある。フロイトは単刀直入に、精神病の病理を性に結びつけて考えた。

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この映画は、カトリックの修道院が悪魔に獲りつかれているため、その修道院に派遣されてきた僧侶の破滅の物語。
悪魔につかれた尼僧ヨアンナに、悪魔払いの様々な努力をするが、そのうちに僧侶自体がその悪魔に取り付かれていくという筋書きなのだが、映画のテーマは、性的存在である人間の悲劇といったところかと思う。

映画の観方は様々でよいと思うが、共産主義体制の抑圧の風刺うんぬんはちょっとピントがずれていると思う。この映画の取り扱っているのは、もう少し人間の禁忌の起源に触れるようなものであろう。

単純といえば、単純。
宗教と性・・・そのまんまフロイトのテーマである。


全体として、荒涼としたポーランドの風景に、精神の破綻を来たした女性の悪魔劇が延々と続いていく。そして、性的なものから隔絶した存在であるべき僧侶が、尼僧との対峙を通じて、人間の暗い性の世界に落ち込んでいく様を、完璧なカメラワークと清みかえったモノトーンの画面の中でゆっくりとゆっくりと描写していく。

形而上学的な問答のやりとりは時に退屈であるものの、それでも緊密な描写が魅力的な映画。
悪魔に憑かれる、すなわち精神に破綻を来たした尼僧たちが、躍動する女性としてむしろ魅力的にみえるのは自分だけではないはず。
それはこの映画の監督の狙いだったと思う。


1963年ポーランド映画。

池袋新文芸坐にて、同じくポーランド映画「パサジェルカ」との二本立てにて。
ちなみに、この「尼僧・・・」で、修道院を抜けて男に遊ばれる結果となる尼僧役は、アンナ・チェピェレフスカ。「パサジェルカ」では、ユダヤ人女性役にて主要な役回りで出ています。




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人の家の世継の話

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(本文は、皇太子夫妻に跡継ぎが未だ授からぬところから巻き起こった、皇室典範について議論も含む、一連の騒動?を前にして書いたもの。初出、2006年02月09日)


人の家の世継ぎの話になんでこんなにみんな一生懸命なんだろう。
よくよく考えてみれば、これほど卑しい話はないと思うんだけどれども。



 私は天皇制についても、きわめて日本的な(したがって独創的な)政治的な作品を見るのである。天皇制は天皇によって生み出されたわけではない。
 天皇は時にみずから陰謀を起こしたこともあるけれども、概して何もしておらず、その陰謀は常に成功のためしがなく、島流しとなったり、山奥に逃げたり、そして結局常に政治的理由によってその存立を認められてきた。
 社会的に忘れられたときにすら政治的に担ぎ出されてくるのであって、その存立の政治的理由はいわば政治家たちの嗅覚によるもので、彼らは日本人の性癖を洞察し、その性癖の中に天皇性を発見していた。

 すくなくとも日本の政治家たち(貴族や武士)は自己の永遠の隆盛(それは永遠ではなかったが、彼らは永遠を夢みたであろう)を約束する手段として絶対君主の必要をかぎつけていた。(中略)天皇を拝むことが、自分自身の威厳を示し、また、みずから威厳を感じる手段であったのである。
−坂口安吾「堕落論

 藤原氏の昔から、もっとも天皇を冒涜するものがもっとも天皇を崇拝していた。
−坂口安吾「続堕落論




万世一系のその一家は神聖にして犯すべからず。

世継ぎが生めない嫁はいたく傷ついていることだろうけど、そんなものは制度や記号として、あの一家を見ている人には関係ないことなんだろうなあ。実に大権、神聖にして犯すべからずである。

普通の家の普通の話。
だが、制度の中にある現人神の場合、人間としての尊厳や家族の価値といったものは与えられていないらしい。大変なことである。



 天皇というものに、実際の尊厳のあるべきイワレはないのである。日本に残る一番古い家柄、そして過去に日本を支配した名門である、ということの外に意味はなく、古い家柄といっても系譜的に辿りうるというだけで、人間誰しも、ただ系図をもたないだけで、類人猿からこのかた、みんな古い家柄であることは論をまたない。

(中略)

 国民の沿道の歓呼というようなものを、それを日本の永遠なる国民的心情などとお考えならまことに滑稽千万である。
 一種の英雄崇拝であるが、英雄とは、天皇や軍人や政治家に限らない。映画俳優もオリムピック選手も英雄であり、二十歳の水泳選手は、たった一夜で英雄になり、その場に於いては、天皇への歓呼以上に亢奮感動をうけ、天皇と同じように、感動の涙を以ってカッサイせられる。

 これを人気という。人気とは流行である。時代的な嗜好で、つまり天皇は人気があるのだ、特に地方に於いて人気がある。田中絹代嬢と同じ人気があり、それだけのことにすぎない。

 ところが田中絹代嬢の人気は彼女自身が自らの才能によって獲得したものであるのに、天皇の人気は、そうではない。

(中略)

 田中絹代嬢の人気は、まだしも、健全なる人気である。実質が批判にたえて、万人の好悪の批判の後に来た人気だからだ。
 天皇の人気には、批判がない。一種の宗教、狂信的な人気であり、そのあり方は邪教の教祖の信徒との結びつきのあり方と全く同じ性質のものなのである。

(中略)

 人間が受ける敬愛、人気は、もっと実質的でなければならぬ。
 天皇が人間ならば、もっと、つつましさがなければならなぬ。天皇がわれわれと同じ混雑の電車で出勤する、それをふと国民が気づいて、サアサア、天皇、どうぞおかけください、と席をすすめる。これだけの自然の尊敬が持続すればそれでよい。天皇が国民から受ける尊敬のあり方が、そのようなものになるとき、日本は真に民主国となり、礼節正しく、人情あつい国となっている筈だ。

 私とても、銀座の散歩の人波の中に、もし天皇とすれ違うときがあるなら、私はオジギなどしないであろうけども、道はゆずってあげるであろう。天皇家というものが、人間として日本人から受ける尊敬は、それが限度であり、又、この尊敬の限度が元来、尊敬というものの全ての限度ではないか。

 天皇が人間の礼節の限度で敬愛されるようにならなければ、日本には文化も、礼節も、正しい人情も行われはせぬ。いつまでも、旧態依然たる敗北以前の日本であって、いずれは又、バカな戦争でもオッパジメテ、又負ける。性懲りもなく、同じようなことを繰り返すにきまっている。
 本当に礼節のある人間は戦争などやりたがる筈はない。人を敬うに、地にぬかずくような気違いであるから、まかり間違うと、腕ずくでアバレルほかにウサバラシができない。地にぬかずく、というようなことが、つまりは、戦争の性格で、人間が右手をあげたり、国民儀礼みたいな狐憑きをやりだしたら、ナチスでも日本でも、もう戦争は近づいたと思えば間違いない。

(中略)

 陛下は当分、宮城にでもとじこもって、お好きな生物学にでも熱中されるがよろしい。
 そして、そのうち国民から忘れられ、そして、忘れられたころに、東京もどうやら復興しているであろう、そして復興した銀座へ、研究室からフラリと散歩にでてこられるがよろしい。陛下と気のついた通行人の幾人かは、別にオジギはしないであろうが、道をゆずってあげるであろう。
 
 そのとき東京も復興したが、人間も復興したのだ、否、今まで狐憑きだった日本に、始めて、人間が生まれ、人間の礼節や、人間の人情や、人間の学問が行われるようになった証拠なのである。

−坂口安吾「天皇陛下にささぐる言葉




かくして、東京は復興したものの、人間はまだ復興することはなく、狐憑きは女性週刊誌やらネットに居残りつづけ、礼節や人情は置き去りにされたまま、人の家の跡取りのゴシップに花開き、そうして一家は未だ通行人に道をゆずられないままなのである。

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80年代的ヒーローは、敗北から何かを体得したか? / 「アンヴィル!夢を諦めきれない男たち」

◇「アンヴィル!夢を諦めきれない男たち」公式サイト

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現代アメリカ的な「負け犬映画」のひとつです。
最近は本当に多いテーマですね。ヘビメタ版「レスラー」といってもいいでしょう。


しかも、それぞれすべて白人が没落していく物語なのがポイントです。
名作「レスラー」のように80年代的価値観をそのまま現代まで頑固に引きずっていくところにも共通点もあります。

やはりマイノリティ白人の没落物語だった「サンシャイン・クリーニング」でも主人公は元アメフトのチアリーダーでしたね。ザック・エフロン主演の「セブンティーン・アゲイン」は、大学バスケのヒーローでした。それぞれ栄光は80年代だったのです。

そういう昨今の80年代のヒーローが没落する物語の中に配置すると、この映画はどうなのかとも思いますが、単に自分がヘビメタが昔から好きではないというのが原因なのかも知れません。

映画のトレーラーに、ダスティン・ホフマンのコメントがあり、「今までヘビメタは好きじゃなかったけど、この映画はよかったぜ・・・」みたいなのがあったわけですが、いやー、これに釣られたかなという感じです。


アンヴィルというカナダのヘビメタバンドについては、これっぽっちも知識はないまま観に行きましたが、こういう人って珍しいのかもしれません。この映画のレビューを各種拝見させてもらいますと、やはりある程度思い入れがある人が多いようです。

自分としては、素晴らしかったけど成功しなかったバンドというのは、まわりに多数ある話ですし、その人たちがどんな人生をその後に続けていったかについても興味があります。しかし、まあさすがにちょっとヘビメタバンドですから、いくらケンカやカネの話で深く掘っていこうとドキュメントのカメラが入り込んでいっても、まるで「あの人は今」企画の延長のようにしか観れないのでした、残念。

瞬間に奉仕するポップ・スターの一部として考えてもいいでしょう、ヘビメタについては。それが、どうしてここまでまだ燃えくすぶっているのか。そこから、ただ単に燃え残っているだけではなくて、その執念とか別次元にある価値みたいなものが本当のアンヴィルにはあるのかも知れませんが、不幸にして、それは自分には伝わってこなかったのです。

吉本隆明はいっています。
「重要なことは、積み重ねによって着々と勝利したふりをすることではなく、敗北につぐ敗北を底までおし押して、そこから何ものかを体得することである。」

彼らの敗北は何かを体得するための敗北にまで根底的な敗北だったのでしょうか?そしてそこから何を得たのでしょうか。
安手のドキュメント手法のせいなのか、音楽のせいのなか、それとも彼らそのものに帰納するものなのか、ちょっと判別はつきませんでした。いずれにせよ、映画は映画で徹底してなければ、単なるそれは今度は映画の敗北です。他の現代アメリカ的敗北を取り扱った映画に比べると、まことに物たりません。




あれですね、これならば「少年メリケンサック」のほうが面白かった。音楽趣味のせいでしょうかねえ。


FWF評価:☆☆★★★

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無人島レコード a-5 / "My back pages" Keith Jarrett

◇Keith Jarrett "My back pages"

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20代の頃、何かに憑りつかれていた、と今では思う。


 人は自分自身など客体化して視ることは出来ないものだ。
 自分自身の速度の中でしか物事を見ることが出来ず、そうしてひたすら人を傷つけて、かたや自分はといえば、硬い鱗のような自尊心をまといながら、まわりからいかに傷つけられなくてすむか、そのために如何に強くあることが出来るかを考え続けていた。


 コマは回転することでしか自立することが出来ない。接地する芯が地面をえぐり続けていくが、コマの運動が残すものはそれだけだ。



 いつかどこかで、そういう自分自身を省みるときがくるのだろうか?
 そう思う自分の精神の弱さを一生懸命否定しながら、しかし、そういう日が来ることを切なく予感していたのだろうと、今では思う。

 いや、しかしそれは終わったわけではない。
 

 
 "My Back Pages"

Crimson flames tied through my ears
Rollin' high and mighty traps
Pounced with fire on flaming roads
Using ideas as my maps
"We'll meet on edges , soon," said I
Proud 'neath heated brow.
Ah , but I was so much older then ,
I'm younger than that now.

深紅の火炎が耳の中で繋がれ
赫奕として、大きな罠が襲いかかる
火焔の道に立ち昇る炎
地図を頼りにするように知恵を働かそう
「ほどなくして危難に立ち会うことになるだろう」と私は言った
眉頭に熱い自信を漲らせながら

それは皺深き日々だった
私は今の方がずっと若やいでいる


Half-wracked prejudice leaped forth
"Rip down all hate," I screamed
Lies that life is black and white
Spoke from my skull. I dreamd
Romantic facts of musketeers
Foundationed deep , somehow.
Ah , but I was so much older then ,
I'm younger than that now.

難破しそうな偏愛が突如にして顕れる
「憎しみなどひき裂いてしまうがいい」
私は叫んだ
人生などは黒でもあり白でもあるのだ、という嘘が
頭蓋から話されることを想像した
銃兵のロマンは
ともかくも現実に深く根ざしている

それは皺深き日々だった
私は今の方がずっと若やいでいる


Girls' faces formed the forward path
From phony jealousy
To memorizing politics
Of ancient history
Flung down by corpse evangelists
Unthought of , though , somehow.
Ah , but I was so much older then ,
I'm younger than that now.

少女の顔は
偽りの嫉妬から
古代の歴史が記銘された政治へと続く道に
まっすぐ向いている
亡骸の姿に堕ちることを
いかようにしても
福音伝道者は考えないかもしれないし
考えるかもしれない

それは皺深き日々だった
私は今の方がずっと若やいでいる


A self-ordained professor's tongue
Too serious to fool
Spouted out that liberty
Is just equality in school
"Equality," I spoke the word
As if a wedding vow.
Ah , but I was so much older then ,
I'm younger than that now.

自ら叙品した教授の教えは
馬鹿にするにはあまりにも厳粛だった
滔々と語るには
自由は学校の中の平等にある、と
「平等」
私はつぶやいた
まるで婚姻の誓いであるかのように

それは皺深き日々だった
私は今の方がずっと若やいでいる


In a soldier's stance , I aimed my hand
At the mongrel dogs who teach
Fearing not that I'd become my enemy
In the instant that I preach
My pathway led by confusion boats
Mutiny from stern to bow.
Ah , but I was so much older then ,
I'm younger than that now.

兵士が銃を構えるように
手で雑種の犬を狙う
犬は私に教えるのだ
私が自分自身の敵になることを恐れてはいけない
船尾から船首までいたるところで
一斉に反乱がおきた船々の混乱に
私の行く末は導かれている、と私が説教する
その瞬間には

それは皺深き日々だった
私は今の方がずっと若やいでいる


Yes , my guard stood hard when abstract threats
Too noble to neglect
Deceived me into thinking
I had something to protect
Good and bad , I define these terms
Quite clear , no doubt , somehow.
Ah , but I was so much older then ,
I'm younger than that now.

そうだ、私の警戒心は高まっていたのだ
抽象的な恐怖は
無視するには崇高で
私を欺く
善悪に対して叛くことが立派なことだと思い込ませていた
これらのことを定義しよう
明確に、疑いなく、いかなることがあれど

それは皺深き日々だった
私は今の方がずっと若やいでいる




 キースジャレットは、すでに完成されたピアニストとして、数々のソロ作品を残しはじめた時代から、至上のピアノトリオといわれる現在形の作品群は好きではない。


 "My back pages"は、1968年の作品Somewhere Before収録。

 新進気鋭のピアニストとして、アートブレーキー&ジャズメッセンジャーズで事実上のデビューを果たし、チャールズロイドカルテットで、フォークとゴスペルタッチの流麗な音色と巧みなテクニックで名を上げた後の作品。

 この時、キースジャレットは24歳。

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 My back pageは、もともとはボブディランの曲。
 この時代、ロックという音楽ジャンルの隆盛により、様々なアプローチからロックミュージックのカバーが流行したが、この曲は原曲を相当に逸脱したキースの解釈により、切なく、そして華麗な名曲となっている。

 チャーリーヘイデンの重いベースのテーマソロから始まるこの曲について、誰かが、ジャズ喫茶でこのアルバムをはじめてかけた時にチャーリーヘイデンのベースソロからキースのピアノが立ち上がってくると、その場の客から驚きとも感嘆ともつかない声があがった、と書いていたが、その感想は自分も全く同じである。


 キースジャレットはこのアルバムのしばらく後、マイルスデイビスのグループに参加する。
 マイルスが名づけたあだ名は「天才ぼうや(ジーニアスキッズ)」。

 しかし、その頃マイルスが進めるファンク路線についていけないジャレットは、平行してソロ作品を出し続け、その後脱退。

 いわゆる彼の傑作といわれる作品は、この時期に立て続けてに出てくる。
 
 

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ジャンル : 音楽

おしゃれでかわいいスラップスティックの名作 / 「地下鉄のザジ」 ルイ・マル

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ツボにはまる人にはたまらない魅力を湛えた映画でしょう。
そして自分もハマりました。これは素晴らしいです、名作です。

やんちゃで、こまっしゃくれた女のコ「ザジ」が、クレヨンしんちゃんみたいな毒舌を吐きながら、パリの街なみを走り回ります。
おかっぱの髪を振り乱しながら笑っている姿で、わかっているのかわかってないのか、こにくらしいことを言うのですが、皆それを受けとめながら、物語は進みます。

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物語・・・といっても、物語らしい物語は特になく、ひたすらドタバタ喜劇が続きます。
ただし、これがまたよく出来た構図と美しいカラーにつつまれながら、右に左に映像がすっとんでいくスピード感は心地よく、楽しみに楽しめるものです。

もともと、考えても見れば少し悲しい少女なんですよ、このザジちゃんは。
パリにやってきたのは、片親の母が恋人と落ち合うためで、情事のためにザジは親戚のおじさんにあずけられます。
おじさんはたれ目でユーモアあふれて、しかしちょっとおっちょこちょいです。そう、「ニュー・シネマ・パラダイス」のあの爺さんですよ!

きっと母親に「パリに行ったら、地下鉄に乗れるよ」と言い含められてきたのでしょう。期待していた地下鉄は、けれどストライキの真っ最中。そして、ザジちゃんのパリでの冒険が始まるわけです。
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ルイ・マルは、ヌーヴェル・ヴァーグの監督とされることが多いですが、この映画は型破りの即興映画手法というよりは、どちらかというと計算されつくした精巧なコメディかと思います。
撮っている監督もスタッフも楽しくて仕方なかっただろう終盤の作り手も面白かっただろう悪ノリシーンや、パリの街を観光名所的にとりあげたロケ撮影の多用では、確かにヌーヴェル・ヴァーグ調ではありますけれど。「死刑台のエレヴェーター」も、自分はあまり好きではないヌーヴェル・ヴァーグでひとくくりにされるような映画ではないでしょう。

ああ、観てよかった、面白かった!古典の映画をこういう気持ちで楽しめるというのは、貴重なことですよ。

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関係ありませんが、日本の映画配給会社に「ザジ・フィルム」というところがありますね。この前観た、「海角七号/君想う、国境の南」もこの会社が配給元でした。あらためて、この会社の配給実績みてみると、たぶん趣味が似ている人が多いんでしょう、自分も大好きな良質な作品が並んでいました。

テーマ : 映画レビュー
ジャンル : 映画

"Killing in the name" Rage against the machine

◇"Killing In The Name" Rage against the machine




権力を身にまとった連中の中には、
十字架を燃やしている奴らと同じ種類の連中がいる。

美名の下に人が殺される。

そして、おまえはそいつらが言っていたことのいいなり。

殺人は正当化される。
殺人者がバッジをつけているという理由で。
あいつらが選ばれた白人だからだ。

おまえは殺人を正当化する
殺人者がバッジをつけているという理由で。
あいつらが選ばれた白人だからだ。

ボケども!おまえの言いなりなんかになってたまるか!

くそったれ!!





十字架を燃やす連中とは、この人たちのこと。

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ネットに巣食ってヘイトスピーチを垂れ流す人種・民族差別主義者も、十字架を燃やす連中と同じなんだよね、あと、石原慎太郎とか、永住外国人地方参政権賦与の問題をもっともらしく語っている風な連中の大半も。

ボケども!おまえの言いなりなんかになってたまるか!





そういえば、このまえ書いたマラドーナの発言と同じことをレイジのティムは発言している。

'97年にフジロック出演で来日した際、寿司を食べていて、日本人スタッフに向かい「何故、君たちの国(広島、長崎)に原爆を落としたアメリカ人にそんなにも親切になれるんだい?」(ティム)と発言した



「自虐史観」とか抜かしているバカどもは、何が本当に自虐なのかを知るべきだと思うんだけどもね。数字の粗探しで歴史修正出来ると思っているしょうもない連中は、一生わかんないかもしれないけども。
まあ、「美しい国」というファシストの匂いがぷんぷんするエセ・ステイツ概念は、強いものにはまかれて弱いものに対抗意識を燃やす美学らしいから、なおさらその真実は見えないだろうけど。



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この曲がはいっているレイジのアルバムのジャケットは、ヴェトナム戦争中、アメリカ傀儡政権の仏教徒弾圧に抗議して焼身自殺する僧侶の有名な写真を使っている。

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