2011年の映画100本とベスト3

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2011年のベスト3です。

その前に、2011年劇場観賞映画全作品100本ジャストをまとめてみます。
ちなみに、この100本という数字、この数年コンスタントに年間140-150本は観ていたのに激減です。

理由はふたつ。ひとつは東北大震災とその後の電力事情のために、一時映画館そのものがやっていなかったため。また、そこから約2カ月、震災ボランティア関係に注力していたこと。

もうひとつは、本業その他が昨年の後半からバタバタしだしてしまったこと。サラリーマンやめたから、映画自由に観れるぜー!などと考えていたのはまことに甘い見通しだったと言わざるをえません(笑)

では、リストアップ開始。


ブレイキング・ニュース  (2004年) 監督: ジョニー・トー
ソーシャル・ネットワーク (2010年) 監督: デヴィッド・フィンチャー
英国王のスピーチ     (2010年) 監督: トム・フーパー
PTU             (2003年) 監督: ジョニー・トー
ノルウェイの森       (2010年) 監督: トラン・アン・ユン
クラシコ           (2010年) 監督: 樋本淳
激突!            (1971年) 監督: スティーヴン・スピルバーグ
127時間          (2010年) 監督: ダニー・ボイル
ポンヌフの恋人      (1991年) 監督: レオス・カラックス
トスカーナの贋作     (2010年) 監督: アッバス・キアロスタミ
十二人の怒れる男    (1957年) 監督: シドニー・ルメット
ロミオ&ジュリエット -フーリガンの恋- (2009年) 監督: アンディバクティアール・ユスフ
SOMEWHERE        (2010年) 監督: ソフィア・コッポラ
ロベレ将軍          (1959年) 監督: ロベルト・ロッセリーニ
暗殺の森           (1970年) 監督: ベルナルド・ベルトルッチ
マイ・バック・ページ     (2011年) 監督: 山下敦弘
MAD探偵 7人の容疑者  (2007年) 監督: ジョニー・トー
ザ・ファイター         (2010年) 監督: デヴィッド・O・ラッセル
ブラック・スワン       (2010年) 監督: ダーレン・アロノフスキー
誘惑              (1957年) 監督: 中平康
結婚相談           (1965年) 監督: 中平康
悲しみのミルク       (2008年) 監督: クラウディア・リョサ
サラエボ,希望の街角   (2010年) 監督: ヤスミラ・ジュバニッチ
阪急電車 片道15分の奇跡(2011年) 監督: 三宅喜重
バーレスク          (2010年) 監督: スティーヴン・アンティン
あいつと私          (1961年) 監督: 中平康
自転車泥棒          (1948年) 監督: ヴィットリオ・デ・シーカ
しとやかな獣         (1962年) 監督: 川島雄三
貸間あり           (1959年) 監督: 川島雄三
ソウル・キッチン       (2009年) 監督: ファティ・アキン
イエスタデイ、ワンスモア (2004年) 監督: ジョニー・トー
死刑執行人もまた死す  (1943年) 監督: フリッツ・ラング
シャンハイ          (2010年) 監督: ミカエル・ハフストローム
仁義なき戦い        (1973年) 監督: 深作欣二
仁義なき戦い 広島死闘篇(1973年) 監督: 深作欣二
ふたりのヌーヴェルヴァーグ ゴダールとトリュフォー (2010年) 監督: エマニュエル・ローラン
スーパー!           (2010年) 監督: ジェームズ・ガン
堀川中立売          (2010年) 監督: 柴田剛
新宿アウトロー ぶっ飛ばせ(1970年) 監督: 藤田敏八
反逆のメロディー       (1970年) 監督: 沢田幸弘
コクリコ坂から         (2011年) 監督: 宮崎吾朗
サンザシの樹の下で     (2010年) 監督: チャン・イーモウ
心中天網島          (1969年) 監督: 篠田正浩
吶喊               (1975年) 監督: 岡本喜八
SUPER 8/スーパーエイト  (2011年) 監督: J・J・エイブラムス
竜馬暗殺            (1974年) 監督: 黒木和雄
聖母観音大菩薩       (1977年) 監督: 若松孝二
書を捨てよ町へ出よう    (1971年) 監督: 寺山修司
変奏曲             (1976年) 監督: 中平康
安城家の舞踏會       (1947年) 監督: 吉村公三郎
小早川家の秋         (1961年) 監督: 小津安二郎
悪の華             (2003年) 監督: クロード・シャブロル
引き裂かれた女        (2007年) 監督: クロード・シャブロル
山椒大夫            (1954年) 監督: 溝口健二
噂の女              (1954年) 監督: 溝口健二
フィツカラルド          (1982年) 監督: ヴェルナー・ヘルツォーク
ウィンターズ・ボーン      (2010年) 監督: デブラ・グラニック
女と銃と荒野の麺屋      (2009年) 監督: チャン・イーモウ
煉瓦女工             (1946年) 監督: 千葉泰樹
わたしを深く埋めて        (1963年) 監督: 井上梅次
最後の切札            (1960年) 監督: 野村芳太郎
横浜暗黒街 マシンガンの竜  (1976年) 監督: 岡本明久
若くて、悪くて、凄いこいつら  (1962年) 監督: 中平康
才女気質              (1959年) 監督: 中平康
ナッシュビル            (1975年) 監督: ロバート・アルトマン
アジョシ             (2010年) 監督: イ・ジョンボム
牛乳屋フランキー        (1956年) 監督: 中平康
ストリート・オブ・ファイヤー   (1984年) 監督: ウォルター・ヒル
探偵はBARにいる         (2011年) 監督: 橋本一
おとうと               (1960年) 監督: 市川崑
ショウほど素敵な商売はない  (1954年) 監督: ウォルター・ラング
風吹く良き日            (1980年) 監督: イ・チャンホ
ゴーストライター          (2010年) 監督: ロマン・ポランスキー
ハウスメイド             (2010年) 監督: イム・サンス
お熱いのがお好き         (1959年) 監督: ビリー・ワイルダー
スリ(掏摸)             (1960年) 監督: ロベール・ブレッソン
ラルジャン             (1983年) 監督: ロベール・ブレッソン
エッセンシャル・キリング     (2010年) 監督: イエジー・スコリモフスキ
ツリー・オブ・ライフ        (2011年) 監督: テレンス・マリック
妻は告白する           (1961年) 監督: 増村保造
「女の小箱」より 夫が見た   (1964年) 監督: 増村保造
鉄道員               (1956年) 監督: ピエトロ・ジェルミ
リリー                (1953年) 監督: チャールズ・ウォルターズ
歴史は女で作られる       (1956年) 監督: マックス・オフュルス
ベニスに死す           (1971年) 監督: ルキノ・ヴィスコンティ
ミッション:インポッシブル/ゴースト・プロトコル (2011年) 監督: ブラッド・バード
三十九夜            (1935年) 監督: アルフレッド・ヒッチコック
コンテイジョン          (2011年) 監督: スティーヴン・ソダーバーグ
監督失格              (2011年) 監督: 平野勝之
ジュリア              (1977年) 監督: フレッド・ジンネマン
インモータルズ -神々の戦い-(2011年) 監督: ターセム・シン・ダンドワール
TESE               (2011年) 監督: 姜成明
県警対組織暴力         (1975年) 監督: 深作欣二
ゴモラ                 (2008年) 監督: マッテオ・ガローネ
恋の罪                (2011年) 監督: 園子温
刑事ジョン・ブック/目撃者    (1985年) 監督: ピーター・ウィアー
百年恋歌               (2005年) 監督: ホウ・シャオシェン
珈琲時光               (2003年) 監督: ホウ・シャオシェン
アンダーグラウンド         (1995年) 監督: エミール・クストリッツァ
マネーボール             (2011年) 監督: ベネット・ミラー
映画に愛をこめて アメリカの夜 (1973年) 監督: フランソワ・トリュフォー
中国娘                 (2009年)監督:グオ・シャオルー
キナタイ・マニラアンダーグラウンド(2009年)監督:ブリランテ・メンドーサ
ハッピー・ゴー・ラッキー       (2008年)監督:マイク・リー
唇を閉ざせ               (2006年)監督:ギョーム・カネ



そして、今年のベスト3+α

◇ベスト3
 1.ブラックスワン/ダーレン・アロノフスキー
   http://masterlow.blog74.fc2.com/blog-entry-289.html
 2.悲しみのミルク/クラウディア・リョサ
   http://masterlow.blog74.fc2.com/blog-entry-285.html
 3.中国娘/グオ・シャオルー
   http://sandaifestival.jp/movie_08.html

◇邦画ベスト1
 1.堀川中立売/柴田剛
   http://masterlow.blog74.fc2.com/blog-entry-327.html

◇観といてよかった旧作ベスト3
 1.妻は告白する/増村保造
   http://masterlow.blog74.fc2.com/blog-entry-330.html
 2.ラルジャン/ロベルト・ブレッソン

 3.誘惑/中平康
   http://masterlow.blog74.fc2.com/blog-entry-287.html


そんなわけで、今年もバリバリ観ていきます。

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正統派カルト映画の熱血にやられた! 「CUT」 アミール・ナデリ

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◇「CUT」公式サイト

この映画「CUT」の基本思想は、「シネコンで流れているクソ映画」「映画は売春婦じゃない」「カネ儲け主義のクソ野郎から映画を取り戻す」。そして朗々と殴り続けられる主人公の映像に、短くカットインされる珠玉の名作100本。
もう手放しでおまえ(監督)に賛成したくなる主張に、映画館内で久々に興奮いたしました(笑)

もちろんこんな映画純粋芸術論は無茶苦茶なわけですよ。
映画は最初から芸術ではなかったわけです。出自はエンターテインメントで興行とか見世物でした。今でもそうです。

しかし、明らかにそれとは違った考え方をした人々もいたわけです。傍から見れば異様で強烈な映画愛の魂。黒澤も溝口もそういう人たちでした。(小津はちょっと違うかな)
もちろんもっと現実主義的なエンターテインメントを目指した人たちがたくさんいたのも確かでしょう。
直接、その芸術至上主義そのものが作品の優劣を決定するものではありませんし。

だから自分がシネコンで映画を観て楽しんでいる人に、「シネコンで上映されているクソ映画」とぶつけられても、そりゃ困るわけですし、この映画の主張は受け入れられないでしょうね(笑)

この映画はそういう意味でカルト映画です。正しくカルト。徹底的な反動性を痛快として楽しむ映画です。

注釈すれば、熱心で狂信的なファンに持ち上げられているという意味でもカルトですが、なんといっても映画カルトについて語った映画にたっぷりと反動性があるわけです。

だから、この映画の中の主人公の主張に共鳴できないとプンスカされても、それは例えば「ピンクフラミング」で主人公ディバインが犬のクソを食べるのに共感できないとするぐらいに、カルトに対する正しい対応ができていないことになります(笑)

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強烈な映画マニアのレクイエムです。
無茶苦茶するぎ主張に暴走する行動。もうね、なんつーか共感しまくり(笑)

しかし、まあよくよく考えても観れば、あれ単に監督の映画ベスト100の発表の場ともいえる映画ですね(笑)

誰にもオススメ出来ない映画ですよ。しかし、変に愛おしい。
屋上でやっている自主上映会「シネフィル東京」にも行ってみたい、というかアレをやりたくなる(笑)

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ひとつだけ文句があるとしたら、映画に出てくる自主上映会のシーンの「シネフィル」はあんなリア充風じゃないわな(笑)
カップルやおしゃれな学生風はあんな名画上映会にはなかなかいません。皆、思いつめて修道僧のようにストイックな方々ばかりで、殺伐としています。それがまたよろしい(笑)



このような偏見と反動に満たされた映画を応援する気持ちで(笑)楽しまさせてもらいました!

映画に出てきた名作100本もリストアップしたい欲望も。なんとも楽しい話ですわー(笑)



FWF評価:☆☆☆☆★

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太宰曰く「男の本質はマザーシップ」 「クレイマー・クレイマー」 ロバート・ベントン

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クレイマー、クレイマー - goo 映画



若かりし日の吉本隆明(吉本ばななの父ちゃんの偉いひと)が、当時の文学青年のあこがれの存在であった太宰治のところを尋ねたときのエピソードが、ずっとひっかかっていて忘れられない。

−「太宰さん、いま重くないですか」と聞いてみた。「そりゃあ、重いさ。だけど、お前、男性の本質は何か知っているか」と言うから、「いや、全然わかいません」と答えたら、「それはマザーシップということだよ」って言ったんです。 「貧困の思想」−

もしや太宰が思い悩んだようにやってきた学生さんにジョークのひとつとしていったことかもしれないこの言葉の意味をどうとるかは大変微妙なところではあります。
げんに太宰がそのセリフの後にかぶせたのは「だから、おまえさんその汚いヒゲを剃れ」というものだったらしいですし(笑)

なお、この言葉を実直に受け取ったかどうかはわかりませんが、吉本家では病弱な妻に変わって、執筆の傍らに家事や炊事をしていたのは吉本隆明でした。ご近所では買い物かご下げて近所に買い物をする吉本先生の姿は有名だったらしい。ここまでの話が、まさか太宰の影響とは思いませんけれども。

ところが、その吉本センセには、「食を語る」という本があるのですが、これに出てくる料理がこれまたとてもおいしそうな料理には思えないんですね。やっぱり男のマザーシップはトンチンカンになってしまいますよ。うん、しかしまあこれは仕方ないです(笑)


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フレンチトーストがうまく焼けるようになるまでのシングル・ファーザーと子供の一年半の物語の映画は、吉本センセのような事情ではなくて、極めて現代的な光景です。

1960年代からウーマン・リブ(今では「フェミニズム」)の運動が盛んになったのは、同時代のマイノリティたちの権利拡大の流れのひとつに位置づけられます。黒人・同性愛者・女性・少数民族・新興宗教・平和主義等々の少数派だった人々の主張は、70年代になってから一挙に開花することになります。
もちろん、これらによからぬ思いを抱く人間もいるでしょう。実際、社会の秩序や宗教観に対するアンチなわけですから。

ちょっと思い出しましょう。「タクシードライバー」「ロッキー」「猿の惑星」、皆これかなりの黒人「差別」の映画です。黒人の権利拡大とブラックパワーの高揚は、これに対するアンチの映画をつくりあげました。ただし、ここで「差別」とカッコ付きにしたのは、黒人を差別を撤廃したことにより、もともと差別する側だった人間(白人)が窮屈な思いをしているという認識から来ているためです。むしろ彼らは逆差別されていると思い込んでいるわけです。
法律も逆差別されている人には味方ではない。「ダーティーハリー」は法律がむしろ悪を野放しにする手助けをしているという、極めて危険な思想に基づいた映画でした。ただし、この映画は、正しいはずの法律が逆に抑圧されている人々を生み出しているやりきれなさをうまくカタルシスに昇華させています。

そんなわけで、この映画もそういうアンチ70年代の映画にカテゴライズされていいと思います。ウーマンリブやフェミニズムへの反撃なわけです。

給料もよろしい、妻に手を上げられるようなこともない、ちょっと仕事に忙しくて家のことを省みない。だけど、妻は何かに不満をもって出て行ってしまう。性的なことだったらクレイマーvsクレイマーの裁判の中で触れられるでしょう。(欧米はそういうところですよ)
人生にふと疑問を感じたのか、ウーマンリブの友達にそそのかされたのか、妻は不条理なまでに、いきなり家出。
そして働きだせばダンナと給料もあんまり変わらないくらいのいい稼ぎだったりもするわけです。離婚裁判で養育権を巡れば、もうほとんど男性に勝ち目はありません。これは日本もアメリカも同じ。母親の方が養育にはよいという判断なのです。

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しかし!ここで出てくるのが「男の本質・マザーシップ」の発現なわけです(笑)
なんというか、すごいウーマンリブへの反撃です。それに最後は母親も負けてしまうわけです。いやはやなんとも(笑)

ウーマンリブへの異議申し立ての映画が、ここまで面白おかしくできたのは、やっぱりダスティン・ホフマンであるからなんでしょうね。当時流行りだした言葉でいえば「ヤッピー」調の仕事命の男のマザーシップへの回帰。なるほど面白い映画です。

1979年の映画ですか。自立した強い女が性的メタファーの中で戦い続ける「エイリアン」もこの年ですね。エイリアンかダスティン・ホフマンのマザーシップが、アンチ・ウーマンリブの凱歌をあげていた時代ということですかね。




みゆき座「午前十時の映画祭にて」

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2011年12月に観た映画

「鉄道員」 (1956年) 監督:ピエトロ・ジェルミ

「歴史は女で作られる」(1956年) 監督:マックス・オフュルス

「ベニスに死す」 (1971年) 監督:ルキノ・ヴィスコンティ
http://masterlow.blog74.fc2.com/blog-entry-364.html

「ミッション:インポッシブル/ゴースト・プロトコル」 (2011年)監督:ブラッド・バード
http://masterlow.blog74.fc2.com/blog-entry-358.html

「三十九夜」(1935年) 監督:アルフレッド・ヒッチコック

「黒魔術」(1949年) 監督:グレゴリー・ラトフ

「コンテイジョン」(2011年) 監督:スティーヴン・ソダーバーグ
http://masterlow.blog74.fc2.com/blog-entry-356.html

「監督失格」(2011年) 監督:平野勝之
http://masterlow.blog74.fc2.com/blog-entry-360.html

「ジュリア」(1977年) 監督: フレッド・ジンネマン
http://masterlow.blog74.fc2.com/blog-entry-357.html



怒涛の忙しさの12月でありましたが、なんとか9本を観賞することができました。
忙しさのあまり、睡眠不足で映画館に向かうことが多く、そのため「三十九夜」と「黒魔術」の2本がところどころ睡魔のために記憶が欠落しているという失態。

「三十九夜」ではかなりがんばって起きているつまりでしたが、短縮版と思しきズタズタのカットに観賞の気力がもたなかったりもしました(笑)


◇今月のベスト
 該当なし

◇今月の発見
 「歴史は女で作られる」

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 これはデジタルリマスターの完全版ですが、本国の劇場公開時には興業の結果が芳しくなく、プロデュース側で監督の許可なく編集したとの逸話があります。
 まあよくある話なのですが、当時のオフュルスびいきのカイエ・ド・シネマあたりが失意のオフュルスにその顛末をインタビューしたために、勝手に編集されてしまったことが有名になりました。フランスでもファイナル・カット権は監督にないわけねえ・・・と思いますが、この映画確かに前半部分が特に冗長で、回想部分のカットバックもわかりにくいため、まあ編集されたほうがよかったんじゃね?とも思います(笑)
 ただ、これ撮影にしろ編集にしろ、そういうアクロバティックさがいいと言えばそうなんでしょうけども。
 かなり気に入ったことは間違いありません。じっくりと1カットずつ分析して楽しむような映画ですね。


◇今月のオススメ
該当なし

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現代の腫れた足の神話 / 『灼熱の魂』 ドゥニ・ヴィルヌーヴ

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「灼熱の魂」公式サイト


正月一番の映画には、まずはシネマヴェーラで「映画史上の名作」にて幕開け。
いやまあこんなもんだよねー、とMGMの1950年代のミュージカル小品を適度に楽しみつつ、翌日に銀座に向かいました。

ハイ、完全に油断しておりましたよ。

正月気分でシャンテに行って、ドスンとレバー直撃の重いフックをくらったようなダメージです。
これは凄まじい映画です。ミステリー仕立てながらも、なんという掘り下げた人間に対する思想。器用にまとめられた映画にして、しかし語られている内容は徹底的に重苦しく、暗黒に包まれ、パンドラの箱を開けた禍々しさに耐えねばなりません。
しかし、最後にひとつ「希望」が残ります。
和解と赦しがそこにあり、憎しみの連鎖を断つための思想があるのです。


関東では日比谷シャンテだけですか。こんな傑作が単館とはなんともはや。しかし自分は幸運だった。みなさんにも新年からの幸福を分け与えたい。ぜひ観るべき作品です。



まずは、映画の前提知識から。
周到に匿名の中東の国の設定にされていますが、この映画はレバノン内戦(1975-1990)がモデルになっています。

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中東の国はほとんどそうなのですが、レバノンという「国家」もかなり出鱈目に出来上がった国家です。
第一次世界大戦でオスマン=トルコが敗れ、中東の国は戦勝国であるイギリスとフランスによる分割統治に近いかたちで国家として「独立」します。
もともとイスラム以外の宗教には極めて寛容だったオスマン=トルコ(現代のイスラム原理主義の過激派の不寛容な考え方はごくごく最近のことですし、一般的にイスラム教徒は他宗教に寛容です)は、様々な民族と宗教を容認していたため、このレバノン地域でも山岳地帯を中心に、キリスト教マロン派やイスラム教ドゥルーズ派などが混交して生活してました。
そうそうドゥルーズ派の映画なら同じレバノンの『ラミアの白い凧』や、シリアではありますが『シリアの花嫁』などで、独自の文化と困難な現状が描かれていましたね。
そういえば『キャラメル』は、そのレバノンの国際都市ベイルートのお話でした。あれはハッピーなお話でしたが、いまひとつ宗教や民族的な背景はわかりにくなかったのですが、女たちの宗教がバラバラなのは少しわかりました。今は多少マシになってきたということなんでしょうか。
本作も含めて特徴的なのは、すべて女性が主人公のところですね。圧倒的な男性社会のイスラムに対置するとなんとなく位置取りがわかってくるような気もしないでもないです。そもそも映画はイスラム圏の資本ではつくられませんし。これは蛇足ですね。

そして業火(映画のタイトル「インセンディーズ」)は国際社会の摩擦と、民族と宗教の偏狭さと不寛容さから発生します。

パレスチナ紛争でイスラエルに追い出された難民は、PLOとともに武器を手にしたままレバノンに亡命してきます。
この映画で、「南」と呼ばれているレバノンの南部はもともとイスラム教徒が多かったエリア。ただし、レバノンという国自体は全体の40%をしめると推測されるマロン派キリスト教徒が多数派です。
このマロン派キリスト教徒が、増加するパレスチナ難民に危機感を抱き、またイスラエルの政治的な扇動もあり、迫害に転じていきます。

映画の主人公(母親)は、このパレスチナ難民と恋に落ちて子供ができるわけですが、すでにマロン派とイスラム教徒とパレスチナ難民は疑心暗鬼のまま殺し合いをはじめていて、右派民兵のような組織ができかかってきた頃。あっけなく、父は殺され、子供が残されるわけです。

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ここにイスラエルと微妙な覇権争いをするシリアが介入してきたり、イスラエルがマロン派キリスト教徒の支援に入ったりで、レバノンの観光地であったベイルートは分断され、それから15年にわたり映画で描かれていたような殺戮と迫害と拷問が跋扈することになったわけです。
特にイスラエルと組んだマロン派キリスト教徒の民兵は幾度も大量虐殺を繰り返し、国際社会の非難を浴びるわけです。映画のバスの殺戮シーンのようなことは、本当にあったことなんでしょう。

憎悪と殺戮が繰り返され、どちらも引くに引けない状態から、今のレバノンは多少なりとも落ち着いている情況ですが、いつこのようなことが起こるかはわかりません。

(以下ネタバレあり)

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嫌悪に充ちた美と北杜夫と三島由紀夫と園子温 / 「ベニスに死す」ルキノ・ヴィスコンティ

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『ベニスに死す』公式サイト

トーマス・マンの『ヴェニスに死す』を読んだのは、中学生の時だった。なぜこのような死と没落と少年愛という禁忌に満ちたテーマの作品をわたくしが読むことになったかといえば、それは先ごろ亡くなった北杜夫の影響です。北杜夫はトーマス・マンの大ファンで、自分のペンネームも実はトーマス・マンの『トニオ・クレーゲル』からとったものでした。
(杜二夫=トニオ→あまりにもそのままなので"二"を抜いて杜夫のペンネームに)

北杜夫のどくとるマンボウシリーズの青春記などでは、この影響で同性愛や少年愛に無邪気にお遊びながら走っていく姿が描かれております。


そんな北杜夫ファンの中学生が、この無邪気な少年愛の風景を真に受けて、『トニオ・クレーゲル』や『ヴェニスに死す』を読んだから大変です(笑)

頭の中に渦巻くクエスチョンマークだらけ。美に滅びていく中年作家の固執する対象が美少年で、結局一言たりとも口を聞かず触れ合うこともないまま死んでいくのです。
(映画の本作でもそうですね。コレラの蔓延を忠告しにいくシーンでの少年との接触、あれは主人公の想像シーンです。お間違いなく。)

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そうしてまったくもってして当然ながら、自分にとってこの物語は嫌悪の対象でしかなかったわけです。これは中々中学生としては正統的な考え方だったと思います(笑)

ただこの北氏は映画の『ベニスに死す』についてはあまりよい評価をしてなかった記憶があります。どうもあの少年のイメージがお気に召さなかったか、またはヴィスコンティ風の退廃模様があわなかったようで。



さて、その北杜夫といえば、三島由紀夫もトーマス・マンを大好きだったため、ほぼ同世代で東京育ちの北杜夫にかなりのシンパシーを感じておりました。ただし、躁状態の北氏が奥さんのご容貌についてひとくさり批評されたため、そのあとは絶交状態になってしまったようですが(笑)

トーマス・マンの影響下にある三島は、美と汚辱というテーマについて幾つもの作品を残しております。「ベニスに死す」の重要なモーチフである美少年と海は『禁色』に有名ですし、醜い老いが美の観察者となり、やがてぽっかりとした無残な死の結末となるのは、『豊饒の海/天人五衰』で深化されるテーマです。


その三島由紀夫は映画ファンでもあるのも有名ですね。ヴィスコンティの作品だと『地獄に堕ちた勇者ども』を、「荘重にして暗欝、耽美的にして醜怪、形容を絶するような高度の映画作品」と絶賛しております。もし、三島由紀夫がそのヴィスコンティが「ヴェニスに死す」を映画化しているという話を聞いたら、そしてそれを観ることができたら、どのような反応を示したか、考えると楽しいですね。

もちろん、三島由紀夫はこの映画前年に死去してますから無理な話です。自分が撮った陰惨極まりない映画『憂国』の主人公のように、死と割腹の醜悪と美を一手に引き受けるように三島は死んで行きました。

この映画、「ただひたすらに美しい」というようなコピーがDVDのコピーになっておりますが、三島はキチンとわかっていました。ヴィスコンティは、醜悪や恥辱やグロステスクを美として甘受する資質に満ちていることを。

小説『ヴェニスに死す』はずっと内省の言葉だけで孤独に綴られていきます。その中の主人公のモノローグ「われわれは必ず邪な道に踏み入らなければならないだろう」はひとつのキーワードです。これを映像の中で拡大し、さらにはこれでもかとクローズアップさせて接写したのが、ヴィスコンティでしょう。

老醜の作曲家、悪臭に満ちたベニスの街、嘘に塗り固められた人々、ラストシーンにいたっては、染めた髪の顔料が額に流れ落ちています。これ、「ただひたすらに美しい」んでしょうかね(笑)。ダーク・ボカートの主人公なんて、ほとんど『バットマン』のジョーカーですよ。汚辱と退廃、死。それらが混在していることがヴィスコンティの「レアリスモ」なのです。美しい美しいって言葉を本気にして中学生がこれ観たらどうするんですか(笑)

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さて映画は、小説と違ってもともとのモデルであったマーラーを大胆にフューチャーしている作品です。
原作の主人公が小説家になっているのとは違って映画は作曲家。映画の狂言まわしにマーラーの友人だった人も出てきます。この人の語りが、小説の主人公の代わりに、難渋かつ形而上学的な美学論と芸術家論をうまく観客に伝えてくれるはずなんでしょうが、どうもそうはなってません。あくまで道化。ここはちょっと残念なところではありますね。
この役者は、「自分のセリフの意味が全く理解できなかった」と後日語っているようですが、ぶっちゃけ自分もわかりません(笑)ただ単に芸術論を中途半端に使って道化にしちゃった感じですね。ここはヴィスコンティの失敗だと思います。

そういえば、この作品で使われていたマーラーの交響曲第五番は、今もっとも日本で戦略的に映画の武器を使いこなすことができる監督園子温の『恋の罪』でも使われておりました。

女性の性のなかにある忌まわしい部分をこれでもかとスクリーンに投影し、バタイユを思わさせる陰惨を実在の殺人事件にはめ込んだ力量が印象的な作品でした。

その映画の中で、カフカの「城」、田村隆一の詩篇などとともに、あけすけに物語性を補完する存在として取り扱われていたのが、マーラーの交響曲第五番。
ずばり、これは本作の音楽の「引用」でしょうね。先ほどの小説の中のモノローグにこのような一節もあります。


認識は威厳も厳格も持たぬから。認識はものを理解し赦し、性根をもたず、体裁も顧みない。認識は奈落に、深淵に気脈を通じている。いや、認識こそ奈落なのだ。(中略)われわれにはただ彷徨することしかできないのだから。
トーマス・マン『ヴェニスに死す』



この言葉と以下の田村隆一は簡単に接続することが可能です。

言葉なんかおぼえるんじゃなかった
日本語とほんのすこしの外国語をおぼえたおかげで
ぼくはあなたの涙のなかに立ちどまる
ぼくはきみの血のなかにたったひとりで帰ってくる



さらには「彷徨」というキーワードを介して、カフカの「城」の物語的な引用は、「ベニスに死す」の引用とここでぴったりと繋がるわけです。


・・・と、この文は『恋の罪』のレビューではありませんので、詳細はそちらをご覧ください(笑)



後期ヴィスコンティの作品の中でも、この作品はちょっと特異な受け取られ方を日本でされているような気がします。特にドイツ三部作『地獄に堕ちた勇者ども』(1969年)、『ベニスに死す』(1971年)『ルードウィヒ/神々の黄昏』(1972)のなかで、どちらかというと一番ドロドロ感が少ないからだと思います。「ただひたすら美しい」とか軽々しく言えちゃうこともできる内容ですからね。

先に紹介した三島の『地獄に堕ちた勇者ども』の作品評にはこんな言い回しがあります。

「心をおののかせる暗欝なリリシズム」
「嫌悪に充ちた美」


まさに、これはそういう映画なのです。この映画を観てヴェニスに行こうと思う人もいないでしょうし(笑)




デジタルリマスター版をジャック&ベティにて。

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マーラーとカフカと田村隆一 / 「恋の罪」 園子温

恋の罪01



映画館の暗闇が引けたときに座席に座りこみながら、まず思いだしたのは、G.バタイユの次のような一節。

おまえは、どんなものにも、あからさまな貌と隠された貌とがあることを知らねばならない。おまえの顔立ちは高貴だ。(中略)だがおまえのドレスの下にのあの軟毛に包まれた部分が、おまえの唇ほどの真理を持たぬわけではない。あの部分は、ひそかに汚物へと開かれている。あの部分を抜きにしては、あの部分の用途につながれた屈辱をぬきにしてはおまえの眼の命ずる真理もしみったれたものになってしまう
(G.バタイユ「ハレルヤ」)





愛のむきだし』でも、徹底的にまじめに人間の「原罪」について語り続けているのが、園子温という監督。
ここでいう「原罪」とはまごうことなきまでカトリックがいうところの「原罪」。

しかも、盗撮グループに所属する主人公というのがあくまでもキッチュであり、そのアンバランスさがとても印象に残った。

原罪が実のところ真正面から描ければ、キッチュになる。ユーモラスでさえある。グロステクにも見える。

これを喜べるか、眼をそむけるか、その選択がこの作品の評価を決める。腑わけでもするかのような冷徹さで、事象のふところに手をいれて血みどろの内臓を取り出す仕草に、自分は声も出なくなった。またやられた、そんな感想をようやくつぶやいて椅子から立ち上がるわけである。




映画は、片親から一方的におまえは罪びとだと宣言されてしまう大学教授にして娼婦である女がキーポイント。

父親が汚辱にまみれた存在だとされ、いい家柄の母親に断罪されてしまう。だからおまえは生まれながらにして呪われているということらしい。

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これはなんとなく三島由紀夫の出自を思い出させた。
三島の祖父は平民の出ながら成りあがった内務官僚。その後、汚職事件で没落。家柄よろしい祖母の影響下に育った、三島は汚辱にまみれた父の家系と決別しつづけることを選ぶ。三島の雅(みやび)趣味は、実は祖母方の影響であり、そこには表裏一体となった汚辱の歴史があるのだ。




途中、田村隆一の詩篇を持ち出してくるのにはびっくりした。「愛のむきだし」における新約聖書のコリントの信徒への手紙と同じく、強烈なインパクト。


言葉なんかおぼえるんじゃなかった
日本語とほんのすこしの外国語をおぼえたおかげで
ぼくはあなたの涙のなかに立ちどまる
ぼくはきみの血のなかにたったひとりで帰ってくる

 −田村隆一『帰途』



さらにはカフカの「城」まで。ここまでくると、正直自分にとっては後付けすぎる仕掛けと思えたが、この田村隆一の詩篇と意味との整合性はとれている。図式すぎるとしても。

マーラーの五番もそういう意味で図式をつくりあげる道具ですが、あまりにも道具然としすぎている感もあります。もちろんこの曲はビスコンティの「ベニスに死す」の物語性の引用ととっていいのであれば。美少年に寄せる同性愛を醜く、かつ美しく描いた、老いた作曲家の汚辱の物語のテイストが、この映画に付け加えられているわけです。


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三人の女の性の罪深さが悲劇となる話です。

狂った母親が娘である大学教授の女の超自我、ラブホテル街で客引きをする大学教授の女が主人公の超自我、という構図は、「愛のむきだし」を、重層的にしたものです。

愛のむきだしでは、超自我が突然新興宗教の教祖に転移して実在化されます。それとは違った展開となったこの映画では、女たちは自我を確立すりための戦いに赴かなかったというところ。儚く虚ろに女たちはオロオロとしていき、そのうちの2人は異様な形相となって深く堕ちていく。

音楽的な物語引用がおこなわれたヴィスコンティの「ベニスに死す」。この原作には老醜の主人公がこんなことをつぶやくシーンがあります。

認識はものを理解し赦し、性根をもたず、体裁も顧みない。認識は奈落に、深淵に気脈を通じている。いや、認識こそ奈落なのだ。(中略)われわれにはただ彷徨することしかできないのだから。
(トーマス・マン「ヴェニスに死す」)



マーラーの交響曲第五番は、この言葉を引き出すかのようです。
「言葉を覚えてしまった」(田村隆一)、つまり「認識してしまったかのゆえに、奈落に落ちてただ彷徨する」(トーマス・マン)。

アダムとイブの原罪を認識することである。それにより「われわれは必ず邪な道に踏み入らなければならないだろう」。そして私たちは苦しむことになる。



血のしがらみで「原罪」を刻印された女は、狂った母に促されるかのように、キチガイじみた娼婦におちていく。これがひとつの発動回路となり、女の中の汚辱の部分に共鳴しあう。


このへんのストーリーがあまりにも強烈すぎて、一応謎解きとなるラストの強引さや、図式を成立させるために多少ぎこちなく取り扱われる「城」の物語的引用に不満は残るものの、圧倒的な映画のパワーに首根っこをつかまれて引きずりまわされる思いである。


ただ同時に、猟奇殺人というテーマをどまんなかにおきながら、その謎解きの部分までキッチュにしてしまうことはなかろうとも感じる。これも愛のむきだしと同じく不満となるところ。
愛のむきだしでも、まったくもってSFアクションもどきな展開がマイナスすぎる。

超自我は最後まで姿を現さないから怖いのは、ヒッチコックからの基本ではないか。しかし、それでもこの監督は結末をつくってしまう。その超自我はなんなのか、真正面からカメラを置く。まじめさと確信犯的なキッチュを現われにする手法が交錯しあう。
この微妙なバランス感は、この監督の魅力として享受してよいものと思う。同時に不満なところでもある。





ちょうど同時期に、ヴィスコンティの「ベニスに死す」がデジタルリマスターで上映されていたため、確認のために観に行くことにした。やはり、これは共振しあっている作品に仕上がっていると思う。園子温の勝ちである。
「ベニスに死す」のレビューを参考にされたし。


FWF評価:☆☆☆☆★

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「リリー」 チャールズ・ウォルターズ 

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リリー - goo 映画



1953年MGMのミュージカル映画。小品風情のストーリーですが、世評は高いですねえ。

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父の死によって孤児となった16歳のリリー(レスリー・キャロン)。
ひょんなことからサーカスの一団に職を得るが、少しぼーっとしたこのコはすぐにクビになってしまう。
行き場がなくなったリリーに呼びかけたのは、人形劇のマペット。このマペットとの共演が評判になるものの、これを操る元ダンサーのひそかな恋心は通じることがない。
ある日、リリーが心を寄せる手品師の男がサーカスを出ていくことになり、それを追うリリーに元ダンサーは嫉妬して頬を叩く。おこったリリーはサーカスを出ようとするのだが・・・。


この映画、なんといってもまずはレスリー・キャロンを好きになれるかで評価がほとんど決定してしまうのでは。MGMのミュージカルにしては、非常にこじんまりとしていて、そこがどうしても評価の分かれどころになってしまうかと思います。

そもそもマペットと本気で話をしたり、手放しで可愛いとはとてもいえない少女顔で、ヒョコヒョコと見ず知らずの男についていくところなど、自分には単に「あどけなさ」では片づけられない能天気さが気にかかり(笑)、最初から最後までなんともはや。

ラストにマペットたちと踊るシーンの面白さはありましたが、とりあえずそこまでというところでしょうか。
まあ「名作」にこんなこと毒づいても仕方ないとは思いますが(笑)

そんなわけで好きな人すみません。





渋谷シネマヴェーラ特集「映画史上の名作6」にて。
フィルム、だいぶ傷んでましたねえ。

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「しあわせだよ」の嘘/ 『監督失格』平野勝之 

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「監督失格」公式サイト

この映画を観て、2つだけ自信をもって断言できることがある。身も蓋もないこと承知。

ひとつめは、林由美香という人が自転車旅行でのテントでつぶやく「しあわせだよ」という言葉がほんとうの言葉ではないということ。
ここでいう「ほんとうの言葉ではない」というのは、ドキュメンタリーのなかでフィクショナルに用意されたセリフと指摘しているのではなく、ただ単に彼女はそんなことはこれっぽっちも思ってなかった言葉だということ。

ふたつめは、この映画は、自殺された部屋に入って、そしてどういうわけか回しっぱなしになったカメラなしではありえなかったドキュメンタリーであろうということ。

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アダルトビデオの世界は、徹頭徹尾男性の視点で女性が描かれる。男性が望む女性しか、そこには現れない。これでもか、これでもかと、女性の「赤裸々」が暴きたてられる。AV女優は、それをまっとうに演じる存在だ。
極めて一方通行な「赤裸々」だが、これが本当に赤裸々なものなのかは疑問である。裸になり、欲情に身を委ね、そして体液にまみれた汚辱に打ち震える。それを見よ、というのがAVの価値である。
それは一方的な方向からしか視点がありえない対幻想の愉楽である。それを視るものは、いつだって片思いに宙ぶらりんになっている。

テントの中に横たわり、「しあわせだよ」とカメラにむかってつぶやく林由美香の目と表情に、自分は奇妙さを感じた。直感的にこれは嘘だろうと思う。これは間違っていないと思う。だが、この作品の撮り手はそんなことは全く意に介さない。

「監督失格だね」と、林由美香がこの作品の監督に毒づいたのは、一番ドキュメンタリーとして撮らねばならないシーンを撮らなかったこの監督のナイーブさに触れたものだった。そう、ナイーブである。「しあわせだよ」という言葉を、そのままで受け止めて、だが、カメラの向こうの林由美香の表情は、この人の意味づけから、ずっと逃げ続けている。

このドキュメンタリー作品が素晴らしいとすれば、このズレがうまくカメラがとらえ続けていることである。監督はそれにうっすらと自覚しているはずである。一方通行で林由美香を追う恋闕らしき情熱・・・しかしそれすらもフィクショナルなものではないかという逡巡があり、それをどこかで懐疑している監督のカメラが、じっと対象を追う。

皆が思うほどに、この作品は簡単な純愛ものではありえない。もっと意地の悪い視点が忍び込んでいる。いや、もしかすると、その意地の悪さそのものが作品をつくっているような勘ぐりまでしたくなる。


数年後、監督とはとうの昔に別れ、今では年下の男に振り回されている林由美香をカメラは追う。
誕生日に自宅でインタビューというシチュエーションもよくわからないが、そこには林由美香の死が転がっている。カメラはまわりつづけている。監督の助手の女が、慌てふためいてカメラを回しっぱなしにしてしまったから、その一部始終が撮られている。
号泣する母親。おろおろとしながらも、病院と警察を手配する監督。警察の事情聴取。
大事なところでカメラをまわしていないのは監督失格、といわれたことが、そこで映画としてつながる。ここに何か偶然ではすまされない意志を感じる。
冗長でもあり、とても映画館のスクリーンには耐えれないVHSテープから起こされたような前半部分と、ここで完璧にぴったりと結びつく。単なるレクイエムの作品から、万人の観賞に耐えうる作品となった瞬間が見事である。

かたちんばの対幻想に身を焦がすことに慣れている私たちは、そこで、これではまるで林由美香が、これを撮れとあらかじめわかっていて呼び寄せたようではないか、とも思うことができる。なんという作品なのであろうか。


自分は林由美香という人をほとんど知らない。別にアダルトビデオを観ないというわけではなく、単に自分の趣味タイプの女優ではなかったからだ。この人の絶頂期に、ひとりぐらしの自分の家にビデオがなかったというのも理由のひとつ。

だから、レクイエムとしてこの映画を観るわけにはいかない。奇跡的に映画として成立したドキュメンタリーとして強く印象に残ったというところまで。
映画の中の林由美香の母親に強い興味をもった。映画の公式サイトで、この家庭のおおよその物語を知った。そろって、家族が率直に自分たちについて語っていた。レクイエムだから、余計なことは撮られていない。しかし、それを示唆する監督のカメラの手つきは理解できた。

そしてあらためて、すれ違いと撮り手と撮られる女優の意地悪さと嘘。それが最後に見事に劇化される、監督と女優の「しあわせな」共犯性と健気さに、ただ茫然とするしかない。




FWF評価:☆☆☆★★

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あの島のかたちは・・・「アンダーグラウンド」 エミール・クストリッツァ

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アンダーグラウンド - goo 映画



もう何年も前に観たこの映画について、ひとつだけ確認したかったことがある。

それはラストシーン。
鵞鳥か何かの白い鳥が列をなし水辺にあがると、その向こうの岸辺では何か楽団とともに酒宴が行われている。

あれは主人公のおっさんと、もう何十年も前に死んだはずのかみさん。
そこに先ほどのシーンで惨殺された、主人公の親友にして、実は主人公を騙くらかして幽閉した張本人である元ユーゴラスラビア共産党の幹部と愛人。愛人は主人公の愛人でもあったから、かみさんはこの酒宴に同席するのに納得しないものの、しかたないかと受け入れるそぶり。

最初から最初まで鳴り響く、バルカンミュージック(ロマ人=ジプシーの楽団)が最後にこの不思議なハッピーエンドのようなものにも添えられて、そして岸辺はやがて陸から切り離されて、大河の中をプカプカと移動していく。

この切り離されて、ドナウ河(?)を漂流する小さな島の形。これが旧ユービスラビアのかたちだったのではないか・・・。

(どうぞみなさん最後の動画でお確かめを)


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民族主義が噴出し、「国民国家」なるフィクションが粉々に砕け散った旧ユーゴの内戦の悲惨は、様々な映画で描かれている。

しかし、幾多のユーゴ内戦をめぐる映画の中でも、この映画の特異なのは、騒々しい登場人物の破天荒な描き方や、グロテスクな「政治ファンタジー」のストーリーや、時折突出するシュールリアリスティックな映像の果てに、徹底的に不器用で支離滅裂な登場人物のエゴの対立や、一筋縄ではいかない政治模様の複雑さが描かれているモザイク模様の素晴らしさだけではない。なによりも、この映画が最終的には、赦しと和解に収斂していく、その思想が特異なのである。

騙し合い、殺し合い、さらにはそこから生じる略奪や強姦や迫害のかなたに、それでも人は赦しあえるのか。それが図太く物語を貫いているテーマである。

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旧ユーゴスラビアで多数派となっていたセルビア人への反発から、その他の民族と宗教をもった国々は次々と独立していく。

道化回しの役どころでしかない国連軍の兵士から「おまえはクロアチア勢力なのかセルビア勢力なのか?」と問われた主人公は、自分の所属は「祖国」だと答える。ユーゴスラビアの理想の「国民国家」の亡霊が地下からまっとうな答えをつぶやくが、それはもうこの映画の舞台となっている1992年のクロアチア独立戦争下では、もはやアナクロな認識に過ぎない。

世界に名だたる民族が入り乱れて、だからこそ独自の繁栄を誇った、ボスニア=ヘルツェゴナのサラエボ出身で、セルビアとムスリムの血を引き、古き良き「祖国」を夢見てこのような政治寓話を撮ったクストリッツァは、これで旧ユーゴの独立した諸国からも、セルビアからも、プロパガンダ映画と批判されてしまうのだ。

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もちろん、この批判を越えてこの映画の素晴らしさはゆるぎない。





もうすでに観た映画である。当時、ユーゴスラビア内戦に関する知識がほとんどなく、なんとも異様な登場人物の不器用な赦しの物語に、強い印象を持った。今回はその背景を少しだけでも知ったあとにニュープリント版で観た。

この映画には5時間の長さになるディレクターズカット版もあるという。そちらも観たくて仕方ない。

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